私自身のこと

発症 — 氣づき — 回復への長い道のり

 

まず、発声障害から人生を振り返る

42歳くらいの頃から、喋る声が喉で詰まるという症状が出始めました。

電話やインターフォンなど、相手が見えない状況で話そうとする時、もっとも顕著でした。

「おかしいな?」程度で、最初はそれほど気にかけていませんでしたが

日に日に症状は進行し、高校で授業をする時、隣の部屋にいる夫に呼びかけようとする時

カフェのカウンターで注文しようとする時、日常生活のありとあらゆる場面で

声を出そうとすると、喉で詰まり、震え、裏返る、という現象が止まらなくなりました。

 

それまで、私は声楽家として舞台で歌ってきましたし

司会進行を務めながら歌唱も披露する、というお仕事を頻繁にしていました。

都立高校の講師として音楽の授業を週に12時間ほど担当してもいました。

声が出なくなるとは、今までの自分の人生がすべてダメになるということだ、

という恐怖感がありました。

 

歌う声に関しては、声楽を志した中学2年生の頃から「難しさ」を感じてきました。

「クラシックの発声を習得するとは、なんと困難を伴うものだろう?」と思ったものです。

それでも必死に勉強や訓練に取り組み、何とか人前で歌えるようになり

それなりに歌うことの喜びを知ってもいきましたが、声を出す時の「困難さ」と「緊張」は

10代の頃と少しも変わらず、私の中に在り続けました。

 

「歌うとはかくも難しいことなのだ」と心得て

時に、喉には目に見える不調や不具合がないのに、まったく声が出なくなる

という不思議で、同時に不可解・不都合極まりない現実を抱えたまま

それでも頑張り続けていましたが

喋る声に異常が現れ始めたことで

「これは、訓練不足やメンタルの弱さだけではない何かの異常がある」という考えを

打ち消すことができなくなりました。

 

どの耳鼻咽喉科を訪ねても「異常なし」と言われ続け

自分に何が起こっているのか掴めないままで来た私は

インターネットで自分の抱える問題と似た症状が存在しないか?と検索を始めました。

そして、見つけたのがこの記事でした。

すぐに、記事の中に登場する、新宿ボイスクリニック 渡嘉敷亮二先生の診療を受ける予約を取りました。

 

精密な検査の結果、渡嘉敷先生の診断は

「痙攣性発声障害の症状とほぼ同系の痙攣・硬直が見られるが、典型的なそれではない。

ただ、筋肉の運動をつかさどる脳のプログラム異常で起きる病気『ジストニア』である可能性は高い。

いずれにしても、発声障害であることは間違いない。

その痙攣・硬直の度合いは、最重度である」というものでした。

2011年7月、47歳の時のことです。

 

この日から、私の人生の方向性は大きく転換を始め

6年後となる2017年5月現在、私の声は普通に出ています。

声楽家として演奏会やオペラの舞台で歌う活動も再開しています。

 

しかし、これまでの道のりは決して平坦ではなく

症状としてはむしろ悪化していった時期が長く

痙攣・硬直は声帯・喉頭に留まることなく、全身に広がっていきました。

手が震えて文字が書けなくなる

首が意思に関係なく左右・上下に振れる

静かに椅子に腰かけているつもりなのに、身体の芯が終始プルプルと小さく痙攣し

「地震だ!」と思ったことが何度もありました。

 

「ジストニアは治らない病気だからね、症状を出なくするためには

症状が出る特定の行為を辞めることが第一です。

あなたの場合だったら、歌うことを辞める、これがこの病気を克服する最もよい手段です」

と断言なさるお医者様にも何人かお会いしました。

 

実際のところ、大きな演奏会が終わってホッとして、数日練習をお休みしたり

1週間以上の旅行に出たりして歌わない日が続くと、その後声はとても出やすくなりました。

「何も考えずとも、何も努力せずとも、声が気持ちよく、どこまでも出る時がある

それはむしろ、練習・訓練を“サボった”時に起こる」ことを経験していました。

ジストニアという病気の性質の一面を知ることで、長年の疑問が一つ、解けました。

 

それでも、私には歌うことを辞める、という選択肢を取ることができませんでした。

辞めなければならないのか?そういう運命なのか?と氣持ちが揺れたことは数知れずですが

その都度、私の心から返ってくる答えは「歌うことは辞めない」というものでした。

 

ブログ『それでも歌って暮らしたい』には、私のその想いが詰まっています。

 

現在のところ、西洋医学的にはまだ「ジストニア」が発症する仕組みや原因について

明確な説明はなされていません。

けれど、実は既に氣づき、知っているお医者様、治療者様は少なくありません。

それを公言する、しない、という問題とは別に、解っている人は解っているのです。

 

私自身が、自分の症状を克服してきた道のりで、交流を持ち、力を貸して下さり、導いて下さった多くの指導者は

すべてと言っても差し支えないほどに、みなさん、どうしてジストニアという脳のプログラム異常が起こるのか

それをどうすれば克服していくことが出来るのか、をかなり確信を持ってご存知でした。

 

かく言う私も、何一つ身体の自由が利かなくなって

そのうち歩くことさえ意思の通りにはできなくなる日がくるのでは?と恐怖に怯えた時期から

快復した体験を経たことで

この現象がいかにして起こるのか

それを克服するには、具体的に何をどうしたらいいのか

が、はっきりと見えてきました。

 

脳のプログラム異常、と言われている「ジストニア」ですが

私の考えは

  • 異常なことは何一つ起こっていない
  • 脳はあくまで正常な反応をしている
  • ただ、その反応が、本人の意思と反しているかのように感じられるので、大変に不都合である

ということです。

症状を克服してみなければ、到底のみ込むことのできなかった真実です。

 

声にコンプレックスを持ち続けながら、長年声楽家として生きてきた自分を振り返って

今、感じることは

「発声障害になって、本当によかった・・・・」ということです。

 

どうしても手放すことが出来なかった「歌って暮らしたい」という氣持ち

「声を取り戻したいなら、歌を辞めるしかない」と迫られた現実

その板挟みの中で見えてきた真実こそ、私が氣づくべき大切な大切な宝物でした。

 

 

被虐者としての人生を振り返る

48歳の時に、ジストニアと診断されたことがきっかけで

お医者様巡りが始まりました。

西洋医学、漢方、鍼、アーユルヴェーダ、整体・・・・民間治療も含め

およそ思いつく限りのお医者様、治療者様を訪ねましたが

結果は捗々しくなく、むしろ治癒の可能性は縮小していくように感じられました。

西洋医学のお医者様のご意見の総意は大体、次のようなものでした。

「ジストニアは治らない」或いは「治ることは稀である」

「治療法は確立されていない」

「投薬や手術などの方法はあるが、いずれも症状を抑えるための対症療法である」

 

訪ね歩いたお医者様の一人に、今は私の師匠である高橋和巳医師がいました。

高橋先生のご著書は、私がまだ30歳になるかならないかの時期から読んでいて

自分ではその理由もよく分からないまま、涙を流しては読み返す愛読書でした。

 

精神科医である高橋先生のクリニックに、カウンセリングに通おうと思い立った経緯や

その初診45分での出来事は、未だに私のブログ記事の中でも断トツでアクセス数の多い

この記事です⇒『カウンセリング初回45分間で分かったこと

 

高橋先生とのこの出会いがなければ、今の私はないのです。

この頃は、まさか自分がカウンセラーとして仕事をしていくとは夢にも考えていませんでした。

 

私が抱えるジストニアという現象(もう、今の私はコレを病気と呼ぶことさえできないと思っています)の起こった原因が

私自身がうすうす予想していた通り、母と私の関係に起因していること、

発声障害という形で表れている症状はきっと治癒すること、

そして、母が、私の望むような形で私のことを理解する日は、どんなに頑張っても尽くしても、一生やってこないこと、

それらが高橋先生から告げられて、その日から私のカウンセリングは始まりました。

 

4年半のカウンセリングの中で、先生が時期を見計らって示してくれた真実

それによって私の心に自然と起こった変容を

ほぼリアルタイムでその都度ブログ『それでも歌って暮らしたい』に綴ってきました。

 

私は、軽度知的能力障害を持った母に、共感されず、理解されず

心理的ネグレクトという「虐待」を受けて育った被虐者=【異邦人】であったのだ

そのため、普通の人が持つ「安心」を知らず

常に「不安」と「緊張」と「恐怖」を感じ続けてきたのだ

と、心底腑に落ちた時から、私の心は

それまでの小さく縮み切って固く硬く閉ざされた状態から

次第次第に、緩み、ほぐれ、広がり、柔らかさを取り戻していきました。

 

その行程は、とても平坦と言うことはできないものでした。

途中、喉頭の痙攣と硬直は更にひどくなり

それまで出ていなかったその他の箇所にも痙攣が現れ始めたりしました。

 

心も、一定のペースで楽に広がっていった訳ではなく

いいと感じる時、ひどく落ち込むとき、今までにない苦しみと対面してしまうとき

目まぐるしく心が上下した時期、その揺れに心底疲れ果ててしまった時期

腑抜けのように動けなくなり何一つ生産的なことが出来なくなった時期

カウンセリングを受け始める前よりずっと辛いと感じることも多々ありました。

 

けれど、私の肚の深いところで、カウンセリングを受けるのを辞めてしまってはならない!

という確信は揺らがなかったのです。

カウンセリングを受けることを辞めてしまうということは

すなわち、私自身の真実から目を背け、人生を放棄することと等しい、という想いが

拭い去れない確かさで私の心の深いところにあったということです。

 

人生を放棄してしまうには、あまりにこの世への未練が大きかった、と言い換えてもいいかもしれません。

或いは

人生を放棄する勇気より

「辛さ」「苦しさ」を乗り越えてでも真実をわかって死にたい!という好奇心が優った

とも言えるかもしれません。

 

いずれにしても、時に必死に、時にグダグダと、高橋先生とのカウンセリングは4年半続きました。

そして、氣づいてみれば、私は被虐者=【異邦人】カウンセラーとして今ここに生きています。

 

 

母と私、これまでのこと

物心ついた2歳ほどの頃から、私は母が大好きでした。

いつも「ママ、ママ」と呼んでばかりいたように憶えています。

一人っ子だった私にとって、母は養育者であり、姉のようでもあり、また友達のようでもありました。

 

母は職業婦人で、経済力があり、社交家でした。

小・中・高時代の私は母のことを

育ちがよく、容姿が美しく、服飾にもインテリアなどについてもセンスが良く

知的で聡明で、あらゆる面で才長けた女性だと思っていました。

実際、外側からはその通りに映りました。

 

母は私の誇りだ、自慢の母だと思いもし、友達などにもそう公言してはばからない私でした。

 

思春期に反抗期らしき反抗期もなく、母とは仲の良い母娘関係を続けてきたつもりでした。

 

けれど、大学生になり、自分のことを自分で決めるべき時に来た時

どうにも自分の意思の通りには、自分の先行きを決められない不自由さを感じ

切羽詰りました。

それまでは、母に逆らうなどはもってのほか、とにかく母が喜ぶように、氣に入るように

母の言うがままに自分の進路を決めてきた私は

もうそれまでのやり方では自分の人生が立ち行かないことを知りました。

 

自分を曲げてでも、母の氣に入るように生きていきたかったのですが

そうしようにも、もはや自分の身体が思うように動いてくれませんでした。

もちろん、心も、です。

 

母子といえども、所詮、別の身体と人格を持った、別の人間です。

どれほど両者が望もうとも、一方の言いなりになって生きることなどできないようになっているのです。

 

母に懇願しました。

「ママの言う通りにしたいけれど、もうそのようには生きていけないようだ

失敗しても、痛い思いをしても、傷ついても、それはすべて私自身が負っていくべき私の人生

自分が行きたい方へと、自分のやり方でやらせてみて欲しい」

 

それに対する母の応えは

「私の言う通りにできないのなら、この家を今すぐ出ていけ

私は絶対だ、その私に逆らうなら生きてきた価値もない

産み育ててもらった恩義を仇で返す罰当たり者、野垂れ死にするのが関の山だ」

決まってこのセリフで罵られました。

 

思えば3-4歳の頃から、「言うことをきかないのなら出ていけ」は母の常套句でした。

幾度となくこの言葉に怯え、本当に母に見捨てられてしまう恐怖におののいて生きてきたのでした。

 

大学を卒業して、私は実際に家を出ていくことを真剣に考え、もうこの頃は声も出なくなっていましたが

何とかアルバイトを掛け持ちして、少しずつお金を貯め、自活する方法を模索し始めていました。

けれど、いつも心の中に在るのは

「ママの言う通りに生きられなくてごめんなさい」という想いでした。

 

結局、自分の皮膚から身体の一部を引き剥がすようにして

家を出ました。

とても悲しく、また同時に、ホッとしました。

 

独り暮らしは寂しく、また、経済的にも困窮していましたが

それでも生まれてこの方味わったことのない安堵と幸福感で満たされていました。

初めて「平和」というものを知った氣がしました。

 

ほぼ仲たがいのように出た実家でしたが、それまで疎遠であった父の方が

たまに様子を見に訪ねてくれたりしました。

 

20代半ばで独り暮らしを始めてから、父が亡くなる35歳まで

私の人生は比較的平穏で

時には離れて暮らす母と会っては傷つき、ショックを受けることはあっても

人並みに生きる意欲や夢や希望を抱いて、前向きに生きられていたように思います。

 

声も、この時代は割合好調で、大きなステージでオーケストラと共演するお仕事を戴いたり

ヨーロッパの演奏会で歌ったりと、声楽家として自活できるようになっていました。

 

それまで元気だった父が、何の前触れもなく心不全で亡くなってしばらくの後

一人になってしまった母が強く望んだため、私は実家に戻りました。

 

もう一人前の大人になっている自覚もありましたし

仕事も順調で、自信もついていましたので

母とは対等に、仲良く暮らしていけるだろう

ある意味ではもう私が、老境に差し掛かる母のことを養い守るのだ、という意識が強くありました。

 

ところが、その頃から、私の心も身体も、声も、急な坂道を転げ落ちるように下降線を辿っていきました。

過呼吸発作が出たり、声が以前にも増して出なくなったり、身体が小刻みに震えるようになりました。

 

父亡き後の母は、完全に私におんぶにだっこ状態で

私の苦しみはまるで目に入らないようでした。

心身の不調で疲弊しきって仕事から帰宅した私に

待ってましたとばかりに自分の訴えを説きながら、私に付いて歩きました。

 

それでも、私は自分の不調の原因が、母と同居を再開したことにあるとは思ってもいませんでした。

それどころか、母を下にも置かぬ勢いで、敬い、機嫌をとり

どうしたら喜ばせられるか、そればかりを考えていました。

 

実際に、母が行きたいと言ったところへはすかさず連れて行き

欲しいと言ったものはすぐに取り寄せて

できる限り尽くしました。

 

その行為が、私自身の「我慢」に通じることには、少しも氣づきませんでした。

 

後に、高橋先生のカウンセリングを受けていくうちにわかったことですが

私の身も心も、もう行きどころがなくなって破裂寸前まで

「我慢」で充満していたのです。

 

私の心に詰まっていた想いは

私がママに掛けているような心を、私もママに掛けてもらいたい

私が一所懸命、ママの望んでいることを知りたいと望むように、私もママに知りたいと思って欲しい

私がママの幸せそうな顔を見て嬉しくなるように、ママにも私の幸せを喜んで欲しい

私はママと一緒に幸せになりたい

同じ氣持ちを味わって、微笑み合って、通じ合って、仲良く話をしたい

ということでした。

 

けれど、それは未だかつて一度たりとて実現したことのない、儚い夢でした。

 

 

幼い頃の私と母の真実がやっと見えた!

我が儘なところがある、自己中心的だ、とは思っていましたが

母は、殊更愛情深く、誰よりも私を思い、一生懸命育ててくれたと信じて疑いませんでした。

 

ところが、カウンセリングを受け始めてしばらくすると

私の口から迸り出るのは、どれほど母からの振舞いに傷ついてきたか

どれほど母に理解されず悲しかったか、悔しかったか、という話ばかりでした。

自分でも不思議でなりませんでした。

 

  • 家族の一員として、一切認められていなかったこと
  • 人権無視のような生活を強いられてきたこと
  • 無理難題を要求されて、必死で応えても一切褒めてもらえなかったこと
  • 一所懸命頑張っていい結果を持ち帰っても、喜ぶどころか罵倒されてきたこと
  • 言いつけに従おうにも、言うことがころころ変わって一貫性がないこと
  • 言ったことを言わないと言い、言わないことを言ったと言い張ること
  • 私の方が嘘つきだということに丸め込まれてしまうこと
  • 人の前で、私の恥ずかしい話を面白おかしく暴露して楽しそうにしていること
  • 氣分によって、猫かわいがりしたり甘えて来たり、反対に無視されたこと
  • 時には理由もなく急に突き飛ばされたり、いきなり頬を張られたこと
  • 私が何か言おうとすると「出ていけ」の一言で黙らせられたこと
  • 一度火が付くと、2時間でも3時間でも罵声が続いたこと
  • 自分の話は何時間でもするのに、私の話には返事をしないこと
  • 理屈に合わないと理詰めで説明しようとすると必ずキレること

・・・・・・・・・・

 

エピソードは語っても語っても、語り尽くせぬほど出てきました。

いつ終わるとも知れないカウンセリングでした。

 

語り続けながら、次第に

「どうやら、母は、私とは違う尺度でモノを見ているらしい」

「私が思う母親が持つであろう愛情を、母は持っていなかったのでは?」という想いが生まれました。

 

例えば…

小学生の頃、私たちの時代は、漫画のキャラクターがプリントされたビニール製の筆箱を

誰もが持っていました。

それが欲しくて欲しくて、学校のバザーで景品に出ているのを見てゲームにチャレンジしましたが

一緒に参加した友達が獲得し、私は惜しくももらえませんでした。

家に帰って悲しくてべそをかいていると、母が「何を泣いてるの?」と訊くので

理由を話しました。

すると、すぐに手を引いてデパートに連れていき、筆箱を買ってくれました。

渋いワインレッドの牛革のペンケースでした。

「これじゃないの、私が欲しいのは、あの…」と指を指そうとすると

「何倍も高いのを買ってあげたのに、なんで文句を言うの!? 人と同じものなんか持つことない!」と一喝されました。

 

リカちゃん人形が流行って欲しがった時は、直輸入フランス人形が

高学年になり、学校に腕時計をして行ってもいいとなった時は

私の欲しかったディズニー時計ではなく、大人用の高級腕時計が

買い与えられました。

 

一事が万事、身の程に不相応な高いものを買ってもらいましたが

それはいつも、私の欲しいものとは違いました。

「これじゃないの・・・・」いつも私の言葉は口からこぼれ落ちる前に、飲み込まれていきました。

そう言ってしまったら、決まって「罰当たり」「出ていけ」「野垂れ死ね」と言われて

私はますます悲しくなり、母の買ってくれたものに素直に「ありがとう」と言えない自分を責めて

ぽたぽたと涙を流して泣くことしかできないことは、もう知り尽くしていました。

 

そうやって、私は自分の本音を封印してきたのだ

言ってはいけない、表現してはいけない、と自分を戒め続けてきたのだ

そして、とうとう声が出なくなった・・・・

 

そんなふうにぼんやりと思いました。

 

 

本当の回復に向かう

ちょうどその頃、新刊出版された高橋先生の『子は親を救うために「心の病」になる』を読みました。

その中では、私がカウンセリングの場で語って来た私自身の母と

とてもよく似たお母さんのエピソードが語られていました。

子は親を救うために「心の病」になる/筑摩書房
¥1,836 Amazon.co.jp

 

次のカウンセリングの時に、高橋先生に質問してみました。

「本に出てくる軽度知的能力障害を持ったお母さんと、うちの母は言動がそっくりです。

もしかしたら、うちの母も同じなんでしょうか?」

 

高橋先生は

「そうだね、あなたのお母さんは軽度知的能力障害という発達障害があると思いますよ」

そう答えてくださいました。

 

ショックではありましたが、心の半分には納得と安堵がありました。

 

それから暫くは、この事実を受け止め、受け容れるためのカウンセリングが続き

心底、腑に落ちたとき、私は脱力しました。

 

これまで書いてきた通り、それですぐに発声障害の症状が消えた訳ではありません。

心も突然明るく、心地よく、のびのびとした訳ではないのです。

結構な長い間、悶々としたり、焦ったり、自棄を起こしそうになったり

脱力のあまり動けなくなってしまったり、なんでラクにならないの!?と怒りを感じたり・・・・

苦しい思いを何度となく味わい、波を越え、やり過ごし

 

まだ生きて、傍に暮らしている母に対する氣持ちも、日々変化し、浮き沈み

腰痛を起こすほど激怒したことも、力ない笑いが出て「もうどうでもいいや」と思ったことも

この時期には、本当にさまざまな想いが湧いては消えていきました。

 

ただ一つの支えは、そのみっともないような経験や想いを

包み隠さず正直に吐き出せる場所があるということでした。

高橋先生にだけは、見栄を張ったり、うまくいってるようなふりをしても何もいいことがない。

ツラい時は「ツラい」と、自分を責める時は「苦しいんです」と、「私、ダメダメです」と

言える相手がいる、という安心。

 

そして、高橋先生は、私以上に私の生命と心の力を信じ

私以上に私のことを理解し、受け容れてくださった。

 

「受容」こそがカウンセリングの真髄だと、のちに自分がカウンセラーになる時、学びました。

私は、実の母親に叶えてもらえなかった「全面的受容」を

高橋先生から実体験で学んでいたことに、後になって氣づきました。

 

また、カウンセリングを受ける=自分を語る、という行為を通して

自分自身に嘘をつかない、虚勢を張らない、ということがどれほどラクなことかを味わいました。

それは、自分がより本当の自分に近づいていくことです。

「本来の自分」「自分の本質」に目覚めることです。

 

そんな氣づきが怒涛のように押し寄せてきたのも、この頃でした。

自分でも忘れないように、またその氣づきを誰かとシェアしたくて

必死にブログに書き綴っては更新した日々でした。

 

もっともっと自分を知りたくなりました。

それが「人の心というものについて勉強したい!」という欲求へと自然に繋がっていきました。

いつの日が、自分のしてきたこの経験が、誰かの役に立つかもしれない、と思い

また、役立たせたい!と思いました。

 

もう、ほとんど無我夢中でした。

体裁とか、計画とか、目論見とか、どこかに吹っ飛んでしまって

心理の勉強に没頭しました。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

そして、ある日ふと氣づいたのです。

自分が、心の底から「愉しい!」と感じていることに。

傍から見ると、どうやらいきいきと日々を送っているように見えているらしいことに。

それまで「周囲から自分がどう見えているか?」を基準に自分の生活を組み立ててきた

私の“生き方の習慣”が自然と崩壊していたことに。

 

高橋先生とのカウンセリングの場は、いつの間にか質問コーナーへとシフトしていました(笑)

勉強していて疑問の湧いたところ、意味は分かるけれどどうにも腑に落ちないところ

「先生、これはどうなんですか?」

「こういう場合もあるということですか?」

「私はこう感じるのですが、それがどこにも書いてないのはなぜですか?」

 

その頃、私はほとんど自分のことを語る必要がなくなっていました。

語り尽くした、というよりは、自分のことよりも先に

知りたい事、やりたいことの方に氣をとられていたのです。

 

無我夢中になって、没頭している間に

・・・・・声は普通になっていました。

心は楽しみを見つけてウキウキ、わくわくとしていました。

 

そうなった瞬間を、私は感じ損なってしまったのです。

実に残念なことです。

でも、人が回復するということは、こんなふうにして実現するんだな、ということを知りました。

 

「はい!今日で出来上がり」のような快復を期待していたのですが

ついにそういった瞬間はやって来ませんでした。

欲求不満の残りそうな回復でしたが、まあ、これはこれで仕方のないことです。

 

それより、私には今も、無我夢中になっていることがあるのです。

日々、クライアントさんと向き合い、高橋先生が私にし続けてくれたように「受容」すること

ブログを読んでメッセージをくださる方々へ想いの丈を込めて返信すること

誰かの役に立つかもしれない、私のみっともない体験をブログに綴り公開すること

歌うこと、身体を動かすこと、声楽指導すること、家事をしながら夫と暮らすこと…

 

あ、これは今の生活の殆どすべてですね。

私は、この一日一日を愉しんで、無我夢中に没頭して生きています。

辛いことが起こらない、ということではありません。

自分の至らないところに直面して落ち込みまくることもあります。

でも、そんなことも全部OKだなぁ、と感じている私がいます。

 

「だから、人生は面白くてやめられない」

そんな心境です。